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「古事記」と壬申の乱(2)

関裕二は「藤原氏の正体」のなかで、中臣鎌足は百済王子・豊璋だという仮説を提唱しています。

豊璋は中大兄皇子に取り入り、白村江の戦いで日本を百済に味方させたとも言っています。

中大兄皇子(のちの天智天皇)=中臣鎌足コンビの親百済路線は、壬申の乱後天武王朝によって親新羅路線に変わります。しかしその後の持統天皇=藤原不比等(中臣鎌足の息子)コンビで元に戻ります。

なぜ天武と持統で外交方針が変わるのか?
関さんは「『古事記』と壬申の乱」で、持統天皇が天武王朝を乗っ取ったと述べています。

持統は天武の奥さんだのになぜ?と思ってしますが、持統は天智の娘でもあるのです。持統は夫の天武ではなく、父の天智の遺志を継いだのです。

天武天皇には男の子が幾人もいましたが、それらが皇位を継承せず、妻が次の天皇になった。これは異常事態です。そして藤原不比等を大抜擢しています。

「春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香久山」
持統天皇の歌ですが、これは政権交替の歌だという梅澤恵美子の説を取りあげ支持しています。

本書の帯に「『古事記』は天武系、『日本書紀』は天智系の歴史書だった」とあります。
『日本書紀』は持統天皇=藤原不比等コンビの路線の中で編纂された歴史書だから天智系となるのです。


じゃあ『古事記』は天武系というのはなぜ?となりますね。

今年は古事記編纂1300年ですから、712年に編纂されたことになります。これは持統=不比等の路線が 
いる時代です。天武路線と違いっているのです。
前回も述べましたが、外交方針が全然違うのです。不思議ですね。

関さんは大和岩雄の「古事記成立考」の、『古事記』と呼ぶべき古い文章が存在して、平安時代にいたり改めて手を加えて編纂しなおしたのではないか、という説を紹介しています。(関さはこの説を支持しています)

成立にかかわったのは(おお)氏、渡来系です。
多氏と太安万侶(おおのやすまろ)は、同族になります。

関さんは、同じ渡来系の(はた)氏も古事記にかかわっていたと見ています。

秦氏や多氏は壬申の乱で、大海人皇子(のちの天武天皇)に味方しています。つまり天武側とみていいと思います。一つの傍証です。


この後は渡来系豪族の歴史(日本に来てから奈良~平安まで)とその悲哀も含んで、関さんは論証していきます。


一応このあたりでやめておきましょうか。多くを言い過ぎるとよくないですからね。
興味のある方は本書を手に取っていただきましょうか(笑)

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