蒲生氏郷
歴史に if はあり得ませんが、if を考えることは楽しいことです。
次の2人が秀吉よりも5年長生きしていたら、関ヶ原の戦いはなく、江戸時代はなかったかもしれません。
それは秀吉の弟秀長と蒲生氏郷です。
秀吉の天下統一後、氏郷は会津の地に領地を与えられます。奥州の抑え(主に伊達正宗対策)の役割を負っています。ところが1595年2月7日に亡くなります。享年40。
蒲生家の家督は嫡子の秀行が継ぎましたが、後に家内不穏の動きから減封されて宇都宮に移されます。その後会津には上杉景勝が入りました。
関ヶ原の戦いは、徳川家康を中心とした上杉征伐軍が出発した時から動き始めます。石田三成と直江兼続(上杉景勝の家臣)との間で、徳川を挟み撃ちにするという密約があったという説があります。
密約があったという前提で書きますが、これは上杉が会津に領地が変わったから出てきた話で、元の領地である越後だったらあり得たかどうかは難しいと思います。
京・大阪と会津との距離と、京・大阪と越後の距離の差が、時間の差となり軍事行動に大きく影響すると思うから。
そして、もともと上杉征伐は、上杉家が新しい領地で新しい城を築いたり道路を整備したりという動きが発端となったこと。越後にいれば天下の名城である春日山城があるから、城など築く必要もないし、領国を整備する必要もありません。この2つが主な理由です。
だから蒲生氏郷がずっと生きていれば、会津にずっといたでしょう。三成と徳川と東西挟み撃ちという密約を結ぶ可能性はゼロだと思います。そうなると関ヶ原の戦いなかったことになります。
ただ、豊臣家崩壊はあり得るので、別の形になったと思います。
さて、先日読んだ「戦乱と文化の興隆」(渡部昇一著)に
幸田露伴の「蒲生氏郷」が紹介してありました。
青空文庫で読むことができます。
なかなか面白いです。
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次の2人が秀吉よりも5年長生きしていたら、関ヶ原の戦いはなく、江戸時代はなかったかもしれません。
それは秀吉の弟秀長と蒲生氏郷です。
秀吉の天下統一後、氏郷は会津の地に領地を与えられます。奥州の抑え(主に伊達正宗対策)の役割を負っています。ところが1595年2月7日に亡くなります。享年40。
蒲生家の家督は嫡子の秀行が継ぎましたが、後に家内不穏の動きから減封されて宇都宮に移されます。その後会津には上杉景勝が入りました。
関ヶ原の戦いは、徳川家康を中心とした上杉征伐軍が出発した時から動き始めます。石田三成と直江兼続(上杉景勝の家臣)との間で、徳川を挟み撃ちにするという密約があったという説があります。
密約があったという前提で書きますが、これは上杉が会津に領地が変わったから出てきた話で、元の領地である越後だったらあり得たかどうかは難しいと思います。
京・大阪と会津との距離と、京・大阪と越後の距離の差が、時間の差となり軍事行動に大きく影響すると思うから。
そして、もともと上杉征伐は、上杉家が新しい領地で新しい城を築いたり道路を整備したりという動きが発端となったこと。越後にいれば天下の名城である春日山城があるから、城など築く必要もないし、領国を整備する必要もありません。この2つが主な理由です。
だから蒲生氏郷がずっと生きていれば、会津にずっといたでしょう。三成と徳川と東西挟み撃ちという密約を結ぶ可能性はゼロだと思います。そうなると関ヶ原の戦いなかったことになります。
ただ、豊臣家崩壊はあり得るので、別の形になったと思います。
さて、先日読んだ「戦乱と文化の興隆」(渡部昇一著)に
幸田露伴の「蒲生氏郷」が紹介してありました。
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