鶴岡八幡宮
1181年7月20日 鶴岡八幡宮の棟上式が行われました。
それに至る経緯を司馬遼太郎「三浦半島記」から抜き出します。
1180年8月17日 源頼朝挙兵
1180年10月6日 鎌倉入り
頼朝追討のための平家の大軍が東海道を下っている時でした。
頼朝は平家との戦いに備える一方、八幡宮の建設を急ぎます。
八幡神は、頼朝にとって頼義以来の清和源氏の氏神です。
ちょっと解説します。といっても司馬さんの言葉をそのまま引用しますが、
「源氏には9つほどの流れがある。
そのうち9世紀の清和天皇から出たとされる清和源氏が武門の名流となった。頼朝の家系である」(P70)
八幡宮建設を急いだ目的について、司馬さんは考察しています。
「自分が清和源氏の嫡流であることを満天下に誇示する必要があったからだろう。
すでにいとこにあたる木曽義仲が挙兵し、関東の足利氏、新田氏、それに甲斐の武田氏も、家系上、清和源氏であることを世間に訴えている。
頼朝にとって、平家打倒よりもまず同族に対し、自分が正統であることを示さねばならず、そのために氏神のやしろを壮麗にしようと思ったのだろう」(P88)
鎌倉入りの翌年の7月20日に棟上式となります。
こうしたことを知ると、行ってみたくなります。鎌倉は一度も行ったことがないのです。当然鶴岡八幡宮も。
一方で、神社建設の意義が僕にはつかめません。
平安末期の武士の“こころ”“信仰”がわからないからです。
正統性誇示のためという感覚もピンときません。
そう考えると、同じ日本人だけど遠いなぁと思ってしまいます。
さて、司馬さんは義経を題材に小説を書きました。タイトルもずばり「義経」で。
しかし頼朝については書いていません。非常に残念です。
“街道をゆく”シリーズで「三浦半島記」が唯一渇きをいやしてくれる本でしょうか。(他に頼朝を題材にしたものがあるかどうか知らないのです)
じっくりと読んでいます。
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それに至る経緯を司馬遼太郎「三浦半島記」から抜き出します。
1180年8月17日 源頼朝挙兵
1180年10月6日 鎌倉入り
頼朝追討のための平家の大軍が東海道を下っている時でした。
頼朝は平家との戦いに備える一方、八幡宮の建設を急ぎます。
八幡神は、頼朝にとって頼義以来の清和源氏の氏神です。
ちょっと解説します。といっても司馬さんの言葉をそのまま引用しますが、
「源氏には9つほどの流れがある。
そのうち9世紀の清和天皇から出たとされる清和源氏が武門の名流となった。頼朝の家系である」(P70)
八幡宮建設を急いだ目的について、司馬さんは考察しています。
「自分が清和源氏の嫡流であることを満天下に誇示する必要があったからだろう。
すでにいとこにあたる木曽義仲が挙兵し、関東の足利氏、新田氏、それに甲斐の武田氏も、家系上、清和源氏であることを世間に訴えている。
頼朝にとって、平家打倒よりもまず同族に対し、自分が正統であることを示さねばならず、そのために氏神のやしろを壮麗にしようと思ったのだろう」(P88)
鎌倉入りの翌年の7月20日に棟上式となります。
こうしたことを知ると、行ってみたくなります。鎌倉は一度も行ったことがないのです。当然鶴岡八幡宮も。
一方で、神社建設の意義が僕にはつかめません。
平安末期の武士の“こころ”“信仰”がわからないからです。
正統性誇示のためという感覚もピンときません。
そう考えると、同じ日本人だけど遠いなぁと思ってしまいます。
さて、司馬さんは義経を題材に小説を書きました。タイトルもずばり「義経」で。
しかし頼朝については書いていません。非常に残念です。
“街道をゆく”シリーズで「三浦半島記」が唯一渇きをいやしてくれる本でしょうか。(他に頼朝を題材にしたものがあるかどうか知らないのです)
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