鎌倉幕府
「いい国作ろう 鎌倉幕府」と中学生の時覚えました。
1192年に鎌倉時代が始まるのですが、1185年に壇ノ浦の戦いで平家が滅んでから7年もたっています。
この7年間はじつに様々な動きがあります。
守護・地頭の任命、義経の追討令、奥州征伐。頼朝の上洛など。
上洛した時は実質的な権力者である後白河法皇と対談しています。
ちなみに頼朝は、後白河法皇のことを「大天狗」と呼んでいましたが・・・
頼朝は「征夷大将軍」を望んでいましたが、この「大天狗」がうんと言いませんでした。
中国の古典では、遠く夷狄(いてき)の地に遠征した大将軍は、みずから幕僚を採用し、その地に行政府を開くことがゆるされたとあります。
それを日本風にアレンジしたものが征夷大将軍です。
この官職がえられるように、京に内々で工作していたようですが、「大天狗」が許しません。
しかし、1192年3月に後白河法皇が崩御。
7月に頼朝は征夷大将軍に任ぜられます。
時を移さず、京から任命のための勅使がくだります。
そうして7月12日、鶴岡八幡宮で勅使応接の儀式が行われました。
鎌倉幕府が公認されたわけです。
(以上、司馬遼太郎「三浦半島記」参照)
武士にとってまことに喜ばしい日であったと思います。
さて
源頼朝と義経とどちらが好きですか?
「判官びいき」という言葉があるように、多くの日本人は義経が好きでしょうね。
けれども僕は頼朝が好きです。
これについては、おいおい語っていきたいと思います。
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1192年に鎌倉時代が始まるのですが、1185年に壇ノ浦の戦いで平家が滅んでから7年もたっています。
この7年間はじつに様々な動きがあります。
守護・地頭の任命、義経の追討令、奥州征伐。頼朝の上洛など。
上洛した時は実質的な権力者である後白河法皇と対談しています。
ちなみに頼朝は、後白河法皇のことを「大天狗」と呼んでいましたが・・・
頼朝は「征夷大将軍」を望んでいましたが、この「大天狗」がうんと言いませんでした。
中国の古典では、遠く夷狄(いてき)の地に遠征した大将軍は、みずから幕僚を採用し、その地に行政府を開くことがゆるされたとあります。
それを日本風にアレンジしたものが征夷大将軍です。
この官職がえられるように、京に内々で工作していたようですが、「大天狗」が許しません。
しかし、1192年3月に後白河法皇が崩御。
7月に頼朝は征夷大将軍に任ぜられます。
時を移さず、京から任命のための勅使がくだります。
そうして7月12日、鶴岡八幡宮で勅使応接の儀式が行われました。
鎌倉幕府が公認されたわけです。
(以上、司馬遼太郎「三浦半島記」参照)
武士にとってまことに喜ばしい日であったと思います。
さて
源頼朝と義経とどちらが好きですか?
「判官びいき」という言葉があるように、多くの日本人は義経が好きでしょうね。
けれども僕は頼朝が好きです。
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