FC2ブログ

もし景勝が顕家ならば

6月2日は本能寺の変が起こった日。(旧暦なので、今の暦にすると別の日になります)

今日の午後は、内閣不信任案の採決があります。

暦の違いはあっても、日付の一致は何か意味があると勝手に考えています。歴史の神様が仕組んだものではないかと(笑)

ちなみに、今この文章を書いているのが午前10時40分過ぎ、午後の結果は知りません。僕に未来予知能力もありません。


さて本題。
4月20日の「駆ける」、23日の「検証“駆ける”」の続編になります。

鎌倉にいた足利尊氏が後醍醐天皇のいる朝廷側に反旗を翻し、京へ攻め上ります。
それを多賀城(仙台の東にある町)から後を追いかけますが、その行程での驚異的スピード(1日30~40km)について書きました。

これを関ヶ原の戦いに当てはめたらどうだろうかと思ったのです。

北方謙三「破軍の星」では、北畠顕家と楠木正成には京にいる朝廷軍と東北からやってきた北畠軍で、足利軍を挟み撃ちにする構想があるような書き方をしていました。実際は朝廷軍が脆く、足利軍に破れ京を明け渡してしまい、実現はしませんでした。

一昨日読み終えた「われに千里の思いあり」に関ヶ原に関する文があって、思いつくことがありました。

もし、北畠顕家が上杉景勝であればということ。

徳川軍を上杉と石田三成を中心として反徳川軍で挟み撃ちにする。直江兼続と三成にその構想がありました。
(僕の曖昧な記憶では、挟み撃ちするという密約を裏付ける史料はないと何かで読みました。あんまり自信がない記憶です。しかしここでは、構想があったとして文を書き進めます)

「直江状」(偽書という説がある)によって、おびき出した徳川家康を会津(福島県)にひきつけます。大阪や伏見を留守にした徳川がいないなか、石田三成を中心に反徳川軍が形成され、徳川方に大名の城を攻撃します。この動きを知った家康は、上杉征伐を中止し、軍を反転させ京・大阪方面へ向かわせます。

一旦江戸へ帰った家康は、しばらく動きません。
満を持して、江戸を進発しますが、自身は東海道を、息子の秀忠は中山道を進ませます。

ここで、上杉はどうしたか。

動かないのです。

直江兼続は、主人の上杉景勝を説得しようとしましたが、頑として首を縦に振りません。

挟み撃ち構想の瓦解です。

もしここで、景勝に北畠顕家がのりうつったら。

戦国最強の一つである上杉軍団を率いて、会津を出て、関東を最短距離で駆け抜け、東海道を家康の後を追いかけさせたら・・・(勿論、1日30~40km走破するスピードですよ)

尾張(愛知県西部)あたりで、家康を東西挟み撃ちにしたら・・・

歴史は変わっていたでしょうね(笑)


歴史に if はありませんが、こんな夢想するのも楽しいものです。

↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い

FC2 Blog Ranking
関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

よんちゃん

Author:よんちゃん
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード