下野小山

1600年7月25日、徳川家康に率いられた上杉景勝征討軍が軍議を行った日です。

場所は下野(しもつけ:栃木県)の小山(おやま)。

「小山評定」と呼ばれるもので、下記の「関ヶ原の戦い」に説明があります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E8%A9%95%E5%AE%9A

6月18日に上杉征討軍が伏見を出発しています。
それから1ケ月と1週間。のろい動きです。

家康にすれば、石田三成の挙兵は想定内で、というより上杉討伐は三成を誘い出すために作戦だと思っています。
だから、早く挙兵してほしかった。上杉と戦闘を始めてから兵をあげてほしくなかった。だからゆっくりと行動した。

だから挙兵の知らせを聞いて「よし!」とほくそ笑んだかもしれません。

しかし、豊臣恩顧の大名はこれを聞いてどう考えたのか、家康側につくのか、三成側につくのかはっきりしません。

ところで征討軍の中の豊臣恩顧の大名には、「三成側」「大阪側」「豊臣側」のどの意識があったでしょうか?

「豊臣側」という意識が大きければ、去就は半分に割れたかもしれません???
(秀吉子飼いの大名は、反豊臣の側に立つことに躊躇したかもしれません)

「三成側」という意識が強ければ、三成憎しの大名は家康側につく可能性は高いと考えられます。

戦国期を生き残ってきた大名に「義」という意識はない、又は薄いと聞きました。利害関係や欲得によって動くと。

我が身と一族郎党、家来たちを守って生き残るにはどうしたらいいか。
実質天下を動かしているといえる家康につく方に利があると。つまり生き残っていけるとと考えた。
(本音の部分はいくらか当たっているでしょうか??)


さて、家康。
軍議の場ではどうなるか。諸大名は動揺し、去就を決めかねている者が多いかもしれない。何もせずに臨めばどうなるかわからない。完全に徳川色に染めるにはどうしたらいいか考えたと思います。
いろいろと手を打ったと思います。最初の一手にミスっても、二番手三番手の策を講じていたかもしれません?

結果は最初の一手が成功しました。
(二番手以降の作戦があるかどうかは知りません。最初の一手というのは僕が勝手に考えたことです)

福島正則がまっさきに口を開き「秀頼様を害する奸臣三成を除くため、徳川殿に味方する」と言います。
これで会議の方向性が決まりました。

家康の作戦勝ちです。
といっても、軍議の席で家康に対抗する相手はいませんでしたが。

いずれにしても、空気というか流れを作った家康。関ヶ原の戦いの勝利への一歩が刻まれました。
もし、ここでつまずいていれば関ヶ原という場所での戦いはなかったかもしれません。
全国規模で戦乱が数年続いたかもしれません?


昨年の7月25日、我が吹奏楽団の演奏会がありました。
拙ブログでは、毎年6月に行うので「ジューン・コンサート」と呼んでいる演奏会。昨年は新型インフルエンザの為、延期になったわけです。

あれから1年。

いろんなことがありました。
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No title

こんばんは、
良くまとまっていますね。^^

戦国時代は、家名を残すために集合・離反を繰り返し、明日に繋げたことは間違いないでしょうね。

良質の情報が少ない時代のことを、現代に生きる私たち個々が評価するのは難しいことなんでしょうね。><
昭和初期の頃は三成の評価が低かったようですが、現在はヒーロー的に人気が高いですよね・・・。
史実としての情報に基ずくのであれば幸いですが・・・。^^

スミマセン、今日は変なコメントになってしまいました。

No title

piglet01さん、こんにちは。

お褒めいただきまして、ありがとうございます。

小山でのことは、推理というよりも僕の妄想です。
良質の情報が少ない中、勝手に思い巡らしたわけでして(苦笑)
何ら史料の裏付けもありません。

けれども歴史好きがあれこれ考えるのは楽しい事で、まさに道楽だなと思ったりします。

三成の評価が変遷していることは知りませんでした。
そのあたりも詳しく知ってみたいです。
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