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密謀

1600年6月18日 徳川家康は上杉景勝征伐のため伏見城を出陣する (日めくり戦国史より)

景勝は上杉謙信の養子。豊臣政権では五大老として重きをなす。
1598年謙信以来の支配地であった越後から会津へ移される。
秀吉死後、上杉は家康と対立。難癖をつけられ(としか言いようがない)、巧みな工作によって豊臣秀頼の命という形をとって上杉征伐(会津征伐)が始まる。

家康の出陣、これが関ヶ原の戦いがここに始まったと言ってよいと思う。


会津の地は元々蒲生氏郷(1595年没)がいて、北の伊達政宗や最上義光と南の徳川家康をけん制する重要な地点であった。
この地が景勝に任されたわけだが、これについて考えてみたい。

・東北の大名の監視だったり、上記3大名のけん制であったりと重要な役割を持っていたが、それを任されるだけの実力を持っていた。

・秀吉の信頼があった。

・うがった見方をすれば、精強な越後兵を恐れ、先祖代々の土地から引き離した。(徳川を三河の地から関東に移したように)

・さらにうがった見方をすれば、将来起こりうる豊臣・徳川戦争に備えて、背後をつかせる狙いがあった。(仮にそうだとしたら、秀吉の発案か?それとも石田三成の発案か?)


さて、江戸にいる家康を北と西から挟み撃ちするという「密謀」。石田三成と直江兼続の間にあったという説が有力です。
作戦としては十分考えられる事ですが、会津・江戸・大阪という距離と動員兵力でいうとスケールの大きな話です。
しかし石田三成がどうしようもないほどの戦下手であることも皮肉な話ですね。

一方、朝鮮出兵において戦以外の部分では三成の頭脳が重要な役割をしたと聞いたことがあります。
大きなスケールの作戦における後方支援などでは抜群のものがあったのかもしれません。だから大阪・江戸・会津の距離感は大きく感じなかったのかもしれません。

今日は根拠のない放談でした(笑)
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No title

そうだと思います。
「将来起こりうる豊臣・徳川戦争に備えて、背後をつかせる狙いがあった」
秀吉or三成の発案か、興味あるところですね。

推測の楽しさ

pigletさん、こんにちは。

蒲生氏郷が生きていれば、そして会津でにらみをきらせ続けていたら関が原の戦いは起きたか?
違う様相を帯びたのではないか?
と考えます。

上杉景勝の移封が1598年。秀吉の死の年であるから「豊臣・徳川戦争に備えて」が妙に現実感を与えるのです。

最晩年の秀吉にどれほどの頭脳の明晰さが残っていたかわかりませんが、大いにあることだと思います。

秀吉と三成で密談がかわされたも十分考えられます。

あくまで推測なのですが、ああだろうか、こうだろうかと考えるのが楽しいです!
僕に文才があれば短編小説でも書くのですが(笑)
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