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名を許される

「豊臣秀長」シリーズを続けていますが、この人は生まれてから20歳を過ぎるまでの百姓であったとき、どのように呼ばれていたかはっきりわかりません。

「姓氏は、ない。名は、実はわからない。」と堺屋さんは書いています。
通説によれば、「小竹」(こちく)を呼ばれていたようです。

氏姓制度について全く知らないのですが、ある程度身分が上にならないと姓や氏がなかったような気がします。
(これも時代によって違うのでしょうが・・・)

さて、4月6日に「名前のタブー」で書きましたが
木下藤吉郎秀吉は、木下が苗字、藤吉郎が(あざな)、秀吉が(いなみ)。
呼びかけ用の名前がはめったに使わない、それを使って人を呼んではいけない(に近い)ものでした。

今日のタイトルの“名を許される”の「」とはのことです。

先日の“東美濃”で書きましたが、秀吉はこの地方の調略活動を任されていました。
その成果もあって東美濃南部を織田家の支配下とすることができました。

「織田信長は、東美濃攻略の論功行賞を行なったが、藤吉郎への褒美は多くなかった。それでも、のちの藤吉郎の出世に重要な影響をもたらすことが二つあった。」(堺屋太一「豊臣秀長」上巻P170) それは、

◎ 藤吉郎が東美濃の豪族に知行書を書き与えた。
→木下藤吉郎がこの方面の代官に意味するものです

◎ 藤吉郎、小一郎の兄弟に名を許された

・・・ということは、兄弟には、それ以前には名がなかったことになります。
僕は、はあってもがなかったことだと解釈しています。

少し深読みすると、
武士階級でも下層になる足軽は、「名」つまりが許されていなかったと考えられます。

これが戦国時代だけのことか?
室町?戦国時代のことか?
それ以外の時代はどうなのか?

戦国時代の織田家だけのことか?
同時代、全国的に共通していることなのか?

細かく突き詰めていくとわからない事だらけです。

本題に戻りますが
ここで藤吉郎は「秀吉」を名乗り、小一郎は「長秀」を名乗ります。(長秀は後に秀長と改めます)

これまでの「豊臣秀長」シリーズで「秀吉」「秀長」と気軽に書いてきましたが、実はまだ名がないのに、さもそうであったかのように使っていた事が発覚しました。(拙ブログを読まれる方にはわかりやすいと思ったからです。ご容赦下さい)
名が許された永禄8年(1565)以降は、まさに「秀吉」「秀長」と書いても嘘を書いているわけではなくなります。

それにしても歴史上の人物を扱うのに、名前はややこしいですね。
一般書籍は煩雑さを避けるために、一般によく通じた名前を使っていることが多いと思います。


いずれにしても、名を許されることが、相当重みがあったことがわかります。しかし、どれほど重みなのかは、400年後の今を生きている僕にはわかりません。
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