前田の砂時計

前田の砂時計という言葉が「殿様の通信簿」(磯田道史 著)に出てきます。

「砂時計のように残り少なくなっていく前田家当主の寿命によって、豊臣政権の寿命がきまってくる」 (P145)
というのです。

砂時計は2つありまして、一つは前田利家の命の砂時計。もう一つはその子である前田利長の命の砂時計です。

徳川家康は前田利家の寿命が切れれば、天下取りの勝負に出る気でいた。事実、利家が死ぬと、家康は待っていましたとばかりに動きだし、関ケ原の合戦となり、豊臣家から天下を奪った」 (P145)

後世の私たちは結果がわかっていますから、秀吉死後、家康を中心に全てが回っているように思いますが、そう簡単には進まなかったようです。

加賀の大納言か、徳川の内府か
まだ戦国の雰囲気を残していた時代、人々は政治的に驚くほど単純でした。強いものはえらい、強いものにつくという思考です。秀吉死後、豊臣家の侍たちは、城中で顔をあわせるときまって、利家が強いか家康が強いか、二人を天秤にかけるような噂話をしたというのです。
「加賀の大納言殿は体がよい
利家は体格がよく、歴戦の猛者であり、見た目にも迫力があって、家康よりも人気がありました。 (P97)

利家の時代の前田家の仮想敵は徳川家でした。
利家は、万一のことがあれば「家康とは敵々に必ずなるべく候(そうろう)」と言っていました。


もし、利家が長生きしていれば歴史が変わったかもしれません。

前田

加賀前田家の初代から五代目までを題材にした小説があります。
われに千里の思いあり」(中村彰彦 著)、利家 - 利長 - 利常 - 光高 - 綱紀 の5人が描かれています。
上質の歴史小説です。お勧めです。


本題に戻って、二つ目の砂時計の話をします。

1614年の旧暦5月20日に利長が亡くなります。

「家康の利長の死をよろこんでいたことは、その行動を見ればわかる。家康は、利長の死をきくや、ただちに、動き始めた。
翌月には豊臣家から片桐且元をよびつけ、豊臣家が建てた方広寺の鐘銘に国家安康とあるのを取り上げて ~ 難癖をつけ、大阪攻めの支度を始めた」 (P158)

後の経過は皆さんが御存知の通りです。


こう書くと物事は単純に進んだように見えますが、そうとは言い切れません。裏にはドロドロとしたのもが・・・

武家社会では父祖の遺言は絶対のものである。しばしば、いま生きている人間より、もう死んでしまった祖先の言葉のほうが、はるかに強く呪縛しているようなところがある」 (P117)

利家は利長に「どんなことがあっても秀頼様を守れ!」と遺言しました。

利長は関ヶ原の戦いの折に徳川に味方するにあたって「自分が生きているうえいは、秀頼様には手を出さない」という約束をかわしていました。
利長は世間に「秀頼様の身の安全は相違ないと返事したから、関ヶ原の時に味方したのだ」と言い触らし、「徳川が豊臣を攻めるなら、自分はなんとしても秀頼公をお守りする」と公言していました。  (P146)


家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開き、日に日に強大になっていきます。
利長は、このまま豊臣家に肩入れしていると、やがて滅びるかもしれないと考えます。

徳川と前田のパワー・ゲームの落としどころ」と、磯田さんが絶妙な言い方をされていますが、利長が隠居することになりました。1605年のことです。

利長の晩年は病気がちで、やがて亡くなります。

服毒自殺とも言われています。


晩年の行動が不可解です。
普通なら病気であることは伏せておくのですが、徳川に自らの病状を知らせ、医師の派遣まで頼んでいます。さらには「徳川の出す薬を飲む」ともで言っているのです。


「利長様は御自身で毒を飲まれた」
江戸時代、加賀藩では、この話は公然の秘密でありました。



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