承久の乱と後鳥羽院

敗者の日本史シリーズ、まず1冊目は「承久の乱と後鳥羽院」 関幸彦 著。

源平争乱から鎌倉時代全般にわたって興味があるのですが、それに関する本はあまり読んでいません。
この時代をテーマにした学者先生の高価な本は大型書店の歴史コーナーにあるのでしょうが、田舎の小さな書店にはおいてありません。
敗者の視点から書かれたこのシリーズも当然おいていません。新聞で知って、図書館へ行き借りてきました。

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印象的な箇所を抜書きします。

後鳥羽上皇の院宣や院宣旨の文言を読むと
後鳥羽側のねらいはあくまで、義時追討にあった
幕府を倒すことではなく、義時の専横を是正することだった」ことがわかると書いています。

たしか学校の授業では、後鳥羽上皇の倒幕の戦いである、と習ったような気がします・・・

「ともすれば幕府否定と読み換えがちなのだが、戦略上での院の意向は、義時排除あるいは北条氏討滅にあった」(P99)
この言い方は微妙ですね(笑)

これに対し幕府はどう対応したか。

関さんは政子の言葉に注目します。
「院側の義時追討を、武家あるいは幕府打倒として読み換えている  (中略)  “関東ノ草創”を無に帰させる行為と読み換えている  (中略)  この巧みともえいる演出で、院の思惑は逆手に取られることになった」

そして、院宣や院宣旨を「非義の綸旨」としたこと。
平安時代であれば、絶対であった王命であるで綸旨を非義としたのです。絶対の正義である綸旨を相対化されたわけです。

考えれば凄いことです。


戦いの結果はご存じの通りです。
ここで面白いと思ったのは、京側に参じた御家人について書いた文です。

「中世社会における主従の関係は定量的関係とされる。多義的・多重的関係を前後とする。
つまりは複数の主人をもつことが許されていた
一人の従者は幕府との関係において地頭職を付与される御家人であるが、他方で権門貴族(荘園領主)や院の荘園所職や間食を与えられれば、これを主君とあおくごとが可能とされた」

これは畿内や西国の御家人に多かったようです。

このような御家人で、承久の乱勃発時において去就に迷う場合も少なくなかったようです。

これらが乱後どうなったか。
「次第に主従の一本化がはかられるにいたる。その限りでは、幕府は承久の乱を通して、京都・鎌倉の両属的家人関係を清算する機会を得たことになる」
ということです。

ちなみに京都側の主従関係は、官職を媒介とする主従関係です。
鎌倉幕府側のは御恩と奉公の関係で、官職にあるか否かは関係ありません。


それこそ頼朝が東国政権を形作っていく過程において、朝廷が直接御家人に官職を与えることを嫌いました。そして武士独自の政権を作っていくわけですが、<鎌倉殿と御家人の主従関係>という明確はビジョンはどのあたりから生じたのでしょうか? 頼朝一人の思考から出てきたのか、関東の武士たちからか、今日からやってきた公家(大江広元など)の知恵によるものなのか? 興味あるところです。

新時代と新秩序を生み出すのに、新たな枠組みを考えだすのは画期的なことだと思います。あとから歴史を学ぶものは何とも思いませんが、実は凄いことだと思います。

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